『東京喰種』感想

『東京喰種』を今までの分すべて通して見てしまった(時間もないのに)。

せっかくなので簡単な感想を。ネタバレは極力しません。

 

僕はこういう「日常と微妙に異なる異世界」の物語がわりと好きなので、世界観は結構気に入った。小さい頃に読んだ藤子・F・不二雄のSF短編集の影響かもしれない。パラレルワールドがもしかしたら僕たちのすぐ隣にあるのかもしれないと考えると、とてもわくわくする。概してそうした物語には暴力の影が色濃く表現されており、異世界に惹かれるのはそれが原因かもしれない。

 

ストーリー展開に関しては大人の事情からか、かなり端折って強引にぐいぐい進める感があり、折角の起承の部分を捨ててしまっている気もした。仕方ないんだろうけどなあ…

テンポ感はかなりよいので、見やすかったかと言われれば見やすかった。1クール後半の展開はなかなかよい。

 

しかし主人公が一人称で心情を吐露するのはいただけないなあと。素人臭いとどうしても思ってしまった。聞いててイライラする…そんな言い方、フィクションでもそうそうしないって! フィクションなんだからフィクション然と(フィクションだと悟られないように)してほしい。

それによってカネキくんのひ弱さが強調されてるから、のちのカネキくんと好対照になるという効果はあるかもしれない。でもなあ、違和感の方が勝るなあ。

 

プロットとしては親殺しそのままなのでかなり平凡(その分の創作力を喰種についての設定に注ぎ込んでいる)。特に序盤の主人公の描写を見ていると、作者がここで言いたいテーマはすでに文学界で語り尽くされているだろうなって。僕は親殺し詳しくないけど、どことなく稚拙だなあと思った原因はそのへんが随分透けて見えてしまうからか。しかし喰種の存在によってこの構造は救われているとは思う。両親を幼い頃に亡くし、かつ東京という無名の人々が大量にいる土地でなければこのような物語は生まれえないだろう。なぜわざわざタイトルに「東京」を入れたのかと言えばこれを補強する意図があるのではないか。

その意味で普遍的な共感は生まれないとも思う。

 

何かを鑑賞・摂取したとき、常に批判的なスタンスを自分のどこかに置くクセがついてしまっているので、そのまま放出したらこんな書き方になってしまった。でも初めに書いたようにこういう世界観は好きなのでぜひもっとよい作品になってほしいと思う。漫画は旧編が完結しているので、余裕があったらチェックしたい。

 

 

とーかちゃんかわいい。

ある一幕

僕がパソコンに触れ始めたのは2001年ごろだったと思う。

 
 
父親はそのころからMacユーザーで、当時家には「パフォーマ」という、いかにもコンピュータと言い表して差し支えないほどにコンピュータ然とした真四角なフォルムをしたMacがあり(僕は「パフォーマ君」と呼んでいた)、それともう1台、父親の仕事用のノートパソコンがあった。だからパソコンはわりに身近な存在だった。
僕はパフォーマ君をよく借りてお絵描きソフトで遊んでいた。小学校の図工の時間に「”何でもいいから”1枚絵を描いてきてください」という課題が出たとき、僕は迷わずそのソフトで描いてプリントアウトした絵を学校に持っていった。嫌なガキだった。

 

 
パフォーマ君は僕のファースト・コンピュータであり、ファースト・Macでもあった。もちろんその頃のOSはバリバリのMacクラシックだったから、現在のMacよりも随所にあたたかみのある造りだった。お正月になると、起動画面に「あけましておめでとうございます」と表示されるのも好きだった。いまでもその理念みたいなものは好きだ。そこは父親も同じであるようで、毎年、正月に酔っぱらうとパフォーマ君を特に意味もないのに起動させてその文字を拝む。電気も付けず、真っ暗な部屋の中で。パソコンが完全に立ち上がるまでの3〜4分、それは1年で一番やるせない時間のような気がする。
 
ADSLから光回線に乗り換えた時からネットにはつながらなくなってしまったし、スペック的にもすでに使い物にならなくなってはいるが、未だに部屋の隅に鎮座している。時代の遺りものだ。
 
話がそれるが、OS10以降のMacしか使ったことのない人にはスティーブ・ジョブスの真のすごさはなかなか理解できないと思う。クラシックOSのMacは実にディープで海賊的だった。生意気にもこう言ってみる。
 
 
お絵描きソフトにも飽き、ネットにつながらなくなってしまったパフォーマ君とは泣く泣く別れ、別のパソコンでネットをするようになった。Youtubeニコニコ動画も普及していなかったし、たまに個人で動画を公開している人もいたけど重た過ぎてなかなか見ることができなかった。だからほぼ必然的にHTMLベースの個人運営のWebサイトをめぐることになる。ゲーム大好き少年だったのでその周辺のサイトとかだった気がする。しかし不思議と攻略サイトではなく、ゲーム音楽関連のサイトを中心に廻っていた気がする。ピアノを習い始める前(もしかしたら少し習い始めていたかもしれないが)だったのに、音楽にその時から関心だけは持っていたんだなと思ってなんだかほっこり。楽譜サイトとか、MIDIサイトとか、開発者の方のインタビュー記事とか。海外サイトの英語も頑張って読んだりした。
誰に伝わるか分からないが、とたけけミュージックを高い再現度でMIDI化しているサイトを見つけた時には本当に驚喜した(きっと誰にも伝わらないんだ)。
 
その頃の(という言い回しを何度も使っていて語彙とレトリックの貧弱さを痛感している)Webサイトは、HTMLタグを1つ1つ打ち込んで作ったような素晴らしく手作り感に満ちあふれたものがほとんどだった。背景が単一色だったり、無駄に斜体になってたり、透過処理してなかったり、画像のピクセルがとても粗かったり。僕は文化的に「2000年代初頭」というのがとても重要な意味を持っていると思っている。そんなWebサイトは間違いなく「2000年代初頭」ライクなものだったし、そう、それはまさに1つの文化だった。そしてWebページをコツコツと作っている人たちをかっこいいと思った。
任天堂のサイトもそういえば手作り感にあふれていた。今でもニンテンドウ64のソフトのページを開くと当時の空気感が画面越しに伝わってくる。だから、DSが発売された頃にスマートなスタイルのホームページになってしまったのを僕はちょっと残念に思った。
 
小学生の僕はそれらのサイトにとても憧れた。
特に好きだったのが、団体が運営しているわけではないのにやたら体系化されていて情報量の多いサイトだった。よくもまあこんな大変な作業をやり遂げたもんだなあ、と感心しきり。階層構造。一日では閲覧しきれない、そうしたサイトを見てはそこに夢を感じた。自分の中に「Webページ=夢の切れ端」という定理が生まれた。いくらでも世界が広がっているように思えた。
 
20代になった今、純粋にそんな風にはなかなか考えられない。やはりあの頃は平和だった。
 
 
小学生〜中学生の時によく訪問していたサイトをふと開いてみると、一方的な旧知の友人に再会したような感覚を覚える。多くのよき思い出がそうであるように、おもちゃ箱のフタを開けると一種の安らぎを感じる。決して不毛なものではなく。
 
いつもいつも昔を愛でていては前に進まないが、それでも振り返ってしまうのは自分がその頃を楽しく過ごしていたからだろうな、と考えて僕を納得させる。もう人生の4分の1が過去となったのだから、少しくらいいいんじゃないか。純化されているだけだと言い切ることもできるが、逆にそれはとても望ましいことなのではないか。
 

「俺達は今、あの頃夢見たような、大人になっているだろうか・・・」

 
「今の俺達を見て、あの頃の俺達は笑うだろうか・・・」
浦沢直樹20世紀少年』第1巻)
 
うーん、それにしても、懐かしい。
 
 
桜井さんが運営していた、「速報スマブラ拳!!」とかね。
 
 
イッツ・ソー・ビューティフル。

 

 

Unexpected Situations

通っていた中学校には卒業以来一度も足を運んだことがない。

 
 
僕の出身中学校は開校してから10年も経っていないとても新しい学校だったので、単に施設が綺麗なだけではなく先生も生徒もやる気に満ちあふれていた(ように記憶している)。かくいう僕も積極的に委員会活動に精を出していたりしたものだった。今ではそんなことは全くやらなくなってしまったし、あの頃は僕も本当にやる気があったのだなと振り返ると悲しくなってしまう。
 
高校時代が楽しくなかったわけでも現在の生活に不満を持っているわけでもないが、けれども中学校時代は実に思い出深い。とても平和だったからだ。あまりにも平和過ぎた。まるで波のない太平洋の真ん中に浮かぶあひるさんボートで日曜日の昼さがりを過ごすようなものだった。

 

 
単純に、小学校から進学してそれまでとは違う新しい環境の中であらゆるものが新鮮に思えたからだろう。周りが好意にあふれた未知の世界だと希望なんていくらでも出てくるものだ(もちろん今の僕にはそんな環境は大変稀なものだとよおくわかっている)。
 
希望が持てるということは平和であり、平和だということはすこぶる気持ちのよいものだ。
 
自分を無理に規定しなくても物事は自然と前に進んでくれたし、しかもそこそこの中身を伴っていた。
貴重な時代だった。
 
 
むろん、新鮮な環境に置かれないと価値ある前進が得られないというわけではない。
手持ちの資材で有効な解を探索するというのが人生の大部分だし、それができないというのはなかなかにまずい。
いや、言いたいのはそういうことではなくて…
 
 
中学生から見た「新鮮な環境」というのは大人(まあ僕は控えめに言っても完全に子どもですけど)の言う[新鮮な環境]とはまるで意味が違う気がする。ということなのです。たかだか13〜14歳の視野なんてピンホールカメラみたいなもの(馬鹿にはできない鋭さをもっているけれど)。だから目の前にあるものを純粋に楽しむことができる。
 
それがどんなに素晴らしいことか。
 
 
大学生にもなると「視野を広げよ、見識を持て」とか言われるし実際何も知らないで社会に出るのは僕の望むところではないので自分なりにいろいろ勉強してるが、必然的に、何かのフィードバックを何かの行為に求めるようになっている(なってしまった)。それは仕方のないことであるとは思う。対価を得られない行為を平然とこなすようでは人はなかなか成長しないし、大学にもまず入れない。
さらに言うと(脱線するが)「勉強に対価なんて求めるべきでない」なんてこざっぱりと言い切る人間を、僕は信用しない。そんな純粋培養の理想は額縁に入れておくものであって、理念が現実を侵食するというのは日常生活では好ましくない。
 
 
そんな視点で中学生の頃の自分を思い出すといい意味でとても無垢だったし、視野が限定されていることによる、経験の凝縮のようなものはたしかにあった。それは実にpeacefulだった。