Unexpected Situations

通っていた中学校には卒業以来一度も足を運んだことがない。

 
 
僕の出身中学校は開校してから10年も経っていないとても新しい学校だったので、単に施設が綺麗なだけではなく先生も生徒もやる気に満ちあふれていた(ように記憶している)。かくいう僕も積極的に委員会活動に精を出していたりしたものだった。今ではそんなことは全くやらなくなってしまったし、あの頃は僕も本当にやる気があったのだなと振り返ると悲しくなってしまう。
 
高校時代が楽しくなかったわけでも現在の生活に不満を持っているわけでもないが、けれども中学校時代は実に思い出深い。とても平和だったからだ。あまりにも平和過ぎた。まるで波のない太平洋の真ん中に浮かぶあひるさんボートで日曜日の昼さがりを過ごすようなものだった。

 

 
単純に、小学校から進学してそれまでとは違う新しい環境の中であらゆるものが新鮮に思えたからだろう。周りが好意にあふれた未知の世界だと希望なんていくらでも出てくるものだ(もちろん今の僕にはそんな環境は大変稀なものだとよおくわかっている)。
 
希望が持てるということは平和であり、平和だということはすこぶる気持ちのよいものだ。
 
自分を無理に規定しなくても物事は自然と前に進んでくれたし、しかもそこそこの中身を伴っていた。
貴重な時代だった。
 
 
むろん、新鮮な環境に置かれないと価値ある前進が得られないというわけではない。
手持ちの資材で有効な解を探索するというのが人生の大部分だし、それができないというのはなかなかにまずい。
いや、言いたいのはそういうことではなくて…
 
 
中学生から見た「新鮮な環境」というのは大人(まあ僕は控えめに言っても完全に子どもですけど)の言う[新鮮な環境]とはまるで意味が違う気がする。ということなのです。たかだか13〜14歳の視野なんてピンホールカメラみたいなもの(馬鹿にはできない鋭さをもっているけれど)。だから目の前にあるものを純粋に楽しむことができる。
 
それがどんなに素晴らしいことか。
 
 
大学生にもなると「視野を広げよ、見識を持て」とか言われるし実際何も知らないで社会に出るのは僕の望むところではないので自分なりにいろいろ勉強してるが、必然的に、何かのフィードバックを何かの行為に求めるようになっている(なってしまった)。それは仕方のないことであるとは思う。対価を得られない行為を平然とこなすようでは人はなかなか成長しないし、大学にもまず入れない。
さらに言うと(脱線するが)「勉強に対価なんて求めるべきでない」なんてこざっぱりと言い切る人間を、僕は信用しない。そんな純粋培養の理想は額縁に入れておくものであって、理念が現実を侵食するというのは日常生活では好ましくない。
 
 
そんな視点で中学生の頃の自分を思い出すといい意味でとても無垢だったし、視野が限定されていることによる、経験の凝縮のようなものはたしかにあった。それは実にpeacefulだった。